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第18回 いけだ薪能

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池田市のシンボル五月山の山麓にある池田城跡公園で毎年薪能が行われています。今年初めて観に行きました。前売で一般は3000円でした。 城跡公園の東側の入口が入場口になっています。 城跡公園は南西側に復元された物見櫓があり(一見天守のように思いますが、実際の池田城には天守はなかったようです)、その北側に池と池に張り出した舞台があり、さらにその先は芝生の広場になっています。 池に張り出した舞台をそのまま能舞台にし、芝生の広場にはパイプ椅子を並べて観覧席としてありました。指定席ではないので、空いているところに座ります。 17:00開演で15分ほど遅れて入ったのですが、6割がた席が埋まっていました。 物見櫓の手前の気に隠れるようにして照明と音響の櫓が組まれています。この写真には写っていませんが左側にも同様の櫓がありますが、そちらも気に隠れるような位置になっています。 そのため、観覧席から見ると現代的な建物や施設はあまり見えず、何となくタイムトリップしたような感覚になります。 (観客の服装はもちろん現代的ですが) 今回の演目は、 仕舞 能「高砂」 火入れ式 狂言「土筆」 仕舞 能「菊慈童」 なお、17:00から17:30の間は五月山児童センターの能楽教室の子どもたちの発表がありました。 始まった時はまだ西日が強く、じりじりと肌が焼かれるような暑さがありましたが、日が傾くとともに徐々に涼しくなり、狂言が始まるころには私も含めてみんな上着を羽織っていました。 休憩のときに違う角度から。雰囲気ありますね。 すぐ背中側が五月山で、山から鳥が飛んで来たり、鶯の鳴き声がしたりするのも面白い。 そんな中、たまに向こうの空に伊丹空港を飛び立った飛行機が見えるのがシュールな印象。 雰囲気を楽しむという意味ではかなりオススメのイベントでした。 城跡公園内には売店もあるのですが、そこではカレーやビール、ワインなどを売っていました。こういうのも薪能ならでは…なのかな?

ランニングウォッチに求めるものは?

やはりM400はご臨終しているようなので、アクティビティトラッカー+スマホでランニングしてみました。 最近は常に身に着けている vivosmart J HR をランニングモードにして心拍数をチェックしながら、スマホでは Polar Beat を起動してランニングのルートをトラッキング。 6kmほど走りましたが、vivosmartの加速度センサーによる距離計測では10km以上走っていることになっていました。 ランニングに関連する数値はいろいろありますが、走る目的によってどの数値を見るかは変わってきます。 今回先述のような環境で走ってみて気づいたのは、私が走るのは主に健康維持やダイエットなので、速度やラップタイムはあまり気にしておらず、心拍数(運動負荷)、全体の経過時間(何分走っているか)、現在時間(そろそろ帰るべき?)が気になるということ。 ペースや速度など、タイムに関係するような要素はある程度予想していた通りですが気になりませんでした。 その意味では実際には6kmのコースを10kmと認識されても問題ないといえばないのですが、もう1つライフログマニアな側面(笑)からはこれだけの差があるとログとしての価値がなくなってしまうので、やはりGPSは必須だな、と強く認識した次第。 一方、心拍数をチェックしながら走るという点では、心拍数を細かく一定にするまでは不要ですが一定の範囲に収まるようにはする必要があります。 そういう意味ではリアルタイムな心拍数表示も必要ですが、一定の範囲を外れた時に通知してくれる機能や、ここまでの平均心拍数はチェックしたい。 もちろん機能があっても使わなければ良いのですが、機能が多いということは一般的には価格に跳ね返ってきます。 必要な機能は押さえつつ、それ以外の機能と価格とのバランスを考えながら、買替の機種を選びたいと思います。 こういう時が一番楽しいですね😁

M400、まさかご臨終か?!

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2年ほど前に買って以来愛用してきたランニングウォッチPolar M400ですが、先日の六甲縦走に付けていって電池が切れてから、充電さえできなくなってしまいました。 充電器に夜の間つないでいても、うんともすんとも言わない。 充電器を変えたり、充電に使うMicroUSBケーブルを変えてみたり、接触が悪いかもしれないので単位を磨いたり何度も差しなおしたりしても、全くダメ。 うーん、買い替えないとダメかな…。

京都国立博物館開館120周年記念特別展覧会「海北友松」を訪れて

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5月2日に訪れた京都国立博物館の海北友松展は、ここ何年かの間に観た展覧会の中では、もっとも内容が充実し、印象に残った展覧会でした。 海北友松(1533-1615)はもとは近江の武士の出で、父・海北綱親の戦死をきっかけに禅門に入り、その後狩野派の絵を学んだ後に独立し、独自の画風で活躍した絵師です。 このような経歴を見ると、武士の家に生まれたものの絵を描くことが好きで、武士として生きる気持ちはあまり持たなかったような人物を想像してしまいますが、実際にはむしろ逆で、彼は晩年になるまで海北家の再興を志しつづけた「武の人」だったようです。 (浅井家の滅亡の際に友松の兄が討ち死にし、友松は禅門から還俗した) 例えば、親しい友人であった明智光秀の家臣斎藤利三の、山崎の戦ののちに処刑されたあとに晒されていた遺骸を槍をふるって奪い、丁寧に埋葬したといった話も伝えられているとのこと。 そんな友松が海北家の再興よりも自身の画業を優先するようになったのはいつ頃なのか。 展覧会の年表や解説を見てもとくにその点について明確に言及した記述はなかったように思いますが、現在残っている彼の作品がおよそ60歳以降のものがほとんどであるという点から考えれば、50歳代でどこかで心境の変化があったのかもしれません。 (年表によると、先述の斎藤利三の刑死は友松50歳のとき。そして、友松が狩野派を離脱したきっかけと考えられる狩野永徳の死が友松58歳のとき) 友松の作品を見ていて感じるのが、その活躍の前半期(といっても60歳以降ですが)においてはスピード感、躍動感でしょうか。 他の絵師の作品をそれほど多くみているわけではないですが、例えば同展覧会に出ていた狩野永徳の作品と比べて、ひとつの筆づかいの長さが長く、途中の線はかすれが強く感じます。 一方、後半期はどんどん線が簡略化されていき、より少ない線で表現されていく。その様はある種の技芸の円熟の境地に達した達人たちに共通する、無駄を削ぎ落し必要な手数だけが残される事象と共通しているように思います。 さらに、彼の作品の集大成ともいうべき「月下渓流図屏風」をみると、その静謐さ、描かないことによる表現など、友松の「武家」「禅」という出自ならではなのではないかと感じました。 展覧会にいったら図録を買いなさい、とは大学のときあ...

六甲山縦走を半分だけ

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5月5日、こどもの日に会社の同僚と4人で六甲山縦走路の西側を歩いてきました。 先日の京都のエントリーに続いて、写真でルートを紹介。 8時30分ごろに須磨浦公園駅を出発。 本当は8時出発予定だったのが、同僚が携帯電話を電車に忘れるハプニングがあり少し遅れてスタート。 鉢伏山から旗降山へ。旗降山から振り返ると明石海峡大橋がハッキリ見えました。 鉄拐山から一度高倉台の住宅地に降り、大丸ピーコックで昼食のおにぎりを購入。住宅地を抜けた先で400階段と呼ばれる長い階段を登って栂尾山頂の展望台でいっぷくしつつ、明石まで携帯電話を取りに行っていた同僚が追いつくのを待って改めて4人で出発しました。 横尾山を越えて、一番の名所といってもよい馬ノ背に。 ここまでは全然元気だったんですけどね…。 横尾、妙法寺の住宅地を通り抜けるころにはちょっとした上り坂でも脚が重くなるようになってきました。 縦走という言葉からある程度のアップダウンはありながらも尾根伝いに進むようなイメージだったのですが、今回のルートに関して言えば、300~500mくらいの登山をいくつも連続して行うという方が的確かもしれません。 高取山の登りはこまめに休憩を取りながらゆっくり進み、またもや一度住宅地に降り、いざ今回のコースでもっともきついと聞かされていた菊水山の登りへ。 途中、「鵯越」「源平町」といった地名に趣を感じながら、重い脚をなんとか動かして進む。ところどころ整備された階段が用意されているのですが、そういう階段の方が脚へのダメージは大きかった…。 ようやくたどり着いた菊水山の山頂で昼食を摂る。 この日は天気が非常によく、眼下には遠く大阪市内がくっきり見えました。むしろ天気が良すぎて想定よりも水分補給のペースが早く、この時点で手持ちの飲料が尽きてしまいました。 同僚に水を分けてもらいつつ、昼食休憩では回復しきれない疲労で脚を引きずりながら鍋蓋山を超えて、大龍寺の自動販売機で水分補給がてら休憩。 ちなみに、一応Polar M400でのトラッキングもしていたのですが、この途中でバッテリー切れ。仕様上は8時間電池がもつとのことでしたが、ほぼその通りの結果でした。 ここから市ケ原に降りたあと、全山縦走であれば摩耶山に向けての急...

春の京都めぐり

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だいたい毎年、ゴールデンウィークには何らかの展覧会を見に行っているのですが、今年は地元逸翁美術館とともに京都の展覧会を見たくて、1日かけて京都を巡ってきました。 行きたかった展覧会は2つ。 京都国立博物館の「海北友松展」と、相国寺承天閣美術館の「伊藤若冲展 [後期]」。 この2つを軸に、その近所や移動ルート上にある寺社仏閣や名所旧跡に立ち寄ることにしました。 以下、写真を交えてルートを簡単に紹介します。 スタートは京都駅。京都タワーを横目に徒歩で京都国立博物館へ移動しました。 雲一つない快晴ながら風があって快適なウォーキングになりました。 9時半開館ですが、9:10の時点で長い列ができていました。 ここでじっくり2時間半かけて作品を鑑賞して、かなり体力を使いました😅 博物館の裏手は豊国神社。 伏見城から移築された国宝の楼門の下で柏手を打ちました。 さらにすぐ横が大阪冬・夏の陣のきっかけとなった鐘銘で有名な方広寺。 鐘のやや上部に2か所白くなっているところがありますが、ここに有名な「国家安康」「君臣豊楽」の文字があります。白く色を入れてくれているおかげでなんとか肉眼でも文字を読むことができました。 豊国神社の前には耳塚。 日本で天下統一を成し遂げた秀吉が大陸にも勢力を伸ばすべく行った朝鮮出兵の際に、兵士たちが首級の代わりに持ち帰った塩漬けにした耳や鼻を弔ったものです。 そんな歴史も、春の晴天の下で静かに眠っているようです。 ここから相国寺に向けての移動のために京阪電車に乗るために駅まで歩きますが、このころから陽射しが強まり気温が上がってきて初夏のような暑さになってきました。 今や国道1号線の一部として車がひっきりなしに通る五条大橋は、牛若丸と弁慶の出会いの逸話で有名ですね。 五条大橋の西のたもとには、牛若丸と弁慶の像が設置されています。 実はこの五条大橋のすぐ南西側、鴨川と高瀬川に挟まれた細いエリアにも史跡がありました。 大きな榎ですが、この榎はかつてこの地にあったという源融の屋敷の庭にあったものだそうです。 源融は源氏物語の主人公光源氏のモデルのひとりとされる貴族です。 あまり知られていないのは、この木があるだけで特に何も残って...