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奈良国立博物館「国宝 春日大社のすべて」(その2)

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興福寺東金堂 興福寺国宝館を出て、すぐ近くの東金堂へ。こちらは建物自体がすでに国宝である。 興福寺東金堂 こちらのご本尊は薬師如来坐像。中央にどっしりとした存在感で静かな佇まいを見せている。 その薬師如来の左右に文殊菩薩や維摩居士、四天王、十二神将などが並んでいる。これらはいずれも国宝に指定されている(ご本尊の薬師如来坐像は重文)。 薄暗い金堂の中にぼんやりと浮かび上がるような仏像の姿は、博物館や国宝館のような展示のためのライティングではない分、厳かな雰囲気が増す気がする。 この東金堂は正面左手から入って、そのまま右手の出口から抜けるのだが、その廊下に沿って上から多くの仏様に見下ろされる。俗世に生きるわが身をすべて見透かされているかような思いにとらわれる。 興福寺北円堂 東金堂を出て、五重塔の前を右に曲がり、工事中の中金堂をぐるっと回りこむようにして北円堂に向かう。地図で見ると北円堂は一番近鉄奈良駅に近いところにある。 興福寺北円堂 先に記載した通り、ゴールデンウィーク中は北円堂が特別開扉ということで中に入ることができた。普段は入ることができないとのこと。毎年開扉があるのかはわからない。 円堂と呼ばれるが、上の写真でもわかるように実際には八角形をしている。円堂の中でも最も有名なのは法隆寺・夢殿ではないかと思うが、この北円堂は八角円堂の中で一番美しいとされているらしい。 こうした円堂は故人の霊を慰めるために建てられたものらしく、北円堂は藤原不比等の1周忌に建てられたものとのこと(現在の建物は鎌倉時代に再建されたもの)。 内部には中心に弥勒菩薩坐像が安置され、その左右の一歩下がったところに無著・世親の立像が、さらにそれらを守るように四天王像が配されている。今回は南側から入って壁沿いに時計回りに仏像の周りをまわって東側の扉から出るようになっていた。東と南の扉が開いているため、お堂の中はかなり明るかった。 弥勒菩薩坐像、無著・世親立像、四天王像のすべてが国宝、かつ北円堂自身も国宝。もう感覚が麻痺してきそうですが、中でも無著・世親立像はその造形の美しさ、表情の豊かさなどひときわ目を引く存在感を放っている。 ところどころ破損しているところもあるし、表面の彩色も大部分が剥げ落ち木目が見えているにもかかわらず、ふとすると...

奈良国立博物館「国宝 春日大社のすべて」

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今日5月1日は43回目の誕生日でした。そんな自分への誕生日プレゼントを兼ねて、奈良国立博物館に行ってきました。 (なんだか旅行ブログになりつつあるような) 奈良といえば鹿 近鉄奈良駅に着いたのが午前10時ごろ。登大路の坂道を登れば奈良国立博物館だ。 興福寺の横を通り過ぎようとしたところ、目の端にちらっと「北円堂特別開扉」の文字が飛び込んできた。 ちょうど今やっている。寄り道確定である。 東金堂と五重塔 考えてみれば、ここ何度か奈良に来た時には興福寺に寄ってない。 こんなこともあろうかと御朱印帳も今回は持参しているので、むしろ寄り道は望むところである。 寄り道に寄り道を重ねて 東金堂の向かい側にプレハブの寺務所があり、御朱印の案内が出ている。特に並ぶでもなくすっと御朱印帳を開いて渡すと「どれにしますか?」と。 どれとは?と混乱していると、担当の方がカウンターの上を指さす。見ると6種類の文字が並んでいて、ここから希望するものを選べるらしい。 とはいえいきなり選べと言われても迷ってしまう。そんな様子を見てか、担当の方が助け舟を出してくれた。 「阿修羅さんはもう見ましたか?」 阿修羅さんとは、おそらく日本で最も有名な仏像の1つであろう阿修羅像のことである。京都にしても奈良にしても、神仏と人々との距離感はご近所さん並みの近さだ。 「いえ、これからです」 「じゃあ5番にしましょうか」 5番というのは『千手観音』だった。 上のやりとりの結果なぜ千手観音なのかというと、阿修羅像は現在国宝館という建物に安置されているが、その国宝館の中心にあるのが千手観音菩薩立像なのである。 担当の方は墨を含ませた筆をよどみなく動かし、千手観音の文字と朱印を押してくれた。 北円堂に寄り道する前に、さらに国宝館に寄り道することになってしまった。とはいえ阿修羅像は昨秋に京都国立博物館で開催された国宝展には出品されていなかったので、これはいい機会だろう。 境内は観光客や学生でにぎわっていたが、国宝館は思ったよりも混んでいなかった。 国宝館だけの入場なら700円だが、東金堂にも入れる共通券にすると900円だという。そんなことを言われたら断れない。予定外の訪問先がどんどん割り込んでくるが、まだ時間には余裕がある。 国宝館はその名の通り、国宝だ...

京都国立博物館開館120周年記念特別展覧会「海北友松」を訪れて

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5月2日に訪れた京都国立博物館の海北友松展は、ここ何年かの間に観た展覧会の中では、もっとも内容が充実し、印象に残った展覧会でした。 海北友松(1533-1615)はもとは近江の武士の出で、父・海北綱親の戦死をきっかけに禅門に入り、その後狩野派の絵を学んだ後に独立し、独自の画風で活躍した絵師です。 このような経歴を見ると、武士の家に生まれたものの絵を描くことが好きで、武士として生きる気持ちはあまり持たなかったような人物を想像してしまいますが、実際にはむしろ逆で、彼は晩年になるまで海北家の再興を志しつづけた「武の人」だったようです。 (浅井家の滅亡の際に友松の兄が討ち死にし、友松は禅門から還俗した) 例えば、親しい友人であった明智光秀の家臣斎藤利三の、山崎の戦ののちに処刑されたあとに晒されていた遺骸を槍をふるって奪い、丁寧に埋葬したといった話も伝えられているとのこと。 そんな友松が海北家の再興よりも自身の画業を優先するようになったのはいつ頃なのか。 展覧会の年表や解説を見てもとくにその点について明確に言及した記述はなかったように思いますが、現在残っている彼の作品がおよそ60歳以降のものがほとんどであるという点から考えれば、50歳代でどこかで心境の変化があったのかもしれません。 (年表によると、先述の斎藤利三の刑死は友松50歳のとき。そして、友松が狩野派を離脱したきっかけと考えられる狩野永徳の死が友松58歳のとき) 友松の作品を見ていて感じるのが、その活躍の前半期(といっても60歳以降ですが)においてはスピード感、躍動感でしょうか。 他の絵師の作品をそれほど多くみているわけではないですが、例えば同展覧会に出ていた狩野永徳の作品と比べて、ひとつの筆づかいの長さが長く、途中の線はかすれが強く感じます。 一方、後半期はどんどん線が簡略化されていき、より少ない線で表現されていく。その様はある種の技芸の円熟の境地に達した達人たちに共通する、無駄を削ぎ落し必要な手数だけが残される事象と共通しているように思います。 さらに、彼の作品の集大成ともいうべき「月下渓流図屏風」をみると、その静謐さ、描かないことによる表現など、友松の「武家」「禅」という出自ならではなのではないかと感じました。 展覧会にいったら図録を買いなさい、とは大学のときあ...

春の京都めぐり

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だいたい毎年、ゴールデンウィークには何らかの展覧会を見に行っているのですが、今年は地元逸翁美術館とともに京都の展覧会を見たくて、1日かけて京都を巡ってきました。 行きたかった展覧会は2つ。 京都国立博物館の「海北友松展」と、相国寺承天閣美術館の「伊藤若冲展 [後期]」。 この2つを軸に、その近所や移動ルート上にある寺社仏閣や名所旧跡に立ち寄ることにしました。 以下、写真を交えてルートを簡単に紹介します。 スタートは京都駅。京都タワーを横目に徒歩で京都国立博物館へ移動しました。 雲一つない快晴ながら風があって快適なウォーキングになりました。 9時半開館ですが、9:10の時点で長い列ができていました。 ここでじっくり2時間半かけて作品を鑑賞して、かなり体力を使いました😅 博物館の裏手は豊国神社。 伏見城から移築された国宝の楼門の下で柏手を打ちました。 さらにすぐ横が大阪冬・夏の陣のきっかけとなった鐘銘で有名な方広寺。 鐘のやや上部に2か所白くなっているところがありますが、ここに有名な「国家安康」「君臣豊楽」の文字があります。白く色を入れてくれているおかげでなんとか肉眼でも文字を読むことができました。 豊国神社の前には耳塚。 日本で天下統一を成し遂げた秀吉が大陸にも勢力を伸ばすべく行った朝鮮出兵の際に、兵士たちが首級の代わりに持ち帰った塩漬けにした耳や鼻を弔ったものです。 そんな歴史も、春の晴天の下で静かに眠っているようです。 ここから相国寺に向けての移動のために京阪電車に乗るために駅まで歩きますが、このころから陽射しが強まり気温が上がってきて初夏のような暑さになってきました。 今や国道1号線の一部として車がひっきりなしに通る五条大橋は、牛若丸と弁慶の出会いの逸話で有名ですね。 五条大橋の西のたもとには、牛若丸と弁慶の像が設置されています。 実はこの五条大橋のすぐ南西側、鴨川と高瀬川に挟まれた細いエリアにも史跡がありました。 大きな榎ですが、この榎はかつてこの地にあったという源融の屋敷の庭にあったものだそうです。 源融は源氏物語の主人公光源氏のモデルのひとりとされる貴族です。 あまり知られていないのは、この木があるだけで特に何も残って...

逸翁美術館「THE 書 ~数寄者が集めた古筆、お見せします~」を訪れて

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池田市は大阪郊外の小さな町ですが、「逸翁美術館」という美術館があります。 阪急電鉄グループの創業者である小林一三氏が収集した美術品や工芸品を収蔵していて、その名は小林氏の雅号「逸翁」にちなんでいます。 池田市に引っ越してきてからすでに10年、その存在を知りながら今まで訪れたことがなかったのですが、今日時間ができたので展覧会に訪問してきました。 今、逸翁美術館では開館60周年記念として1年間にわたって開催される一連の展覧会の第一幕として「 THE 書 ~数寄者が集めた古筆、お見せします~ 」が開催されています。 何年か前に建て替えられたはずの建物はシンプルながら洗練された印象です。 今回は45点の書が展示されており、重要文化財に指定されているものが4点、重要美術品に指定されているものも7点含まれています。 古筆というのは平安~鎌倉期にかけての、おもにかな文字の名筆を指すそうです。 こうした時期の書はおもに巻物や書籍・冊子の形態だったわけですが、後の時代にはこれらを切って掛け物にして茶の席に飾ることが流行ったそうで、今回展示されていたものも大部分は掛け物の形態になっていました。 こうした元の巻物や書籍を切ったものを「切」といい、古筆の切を「古筆切」と呼ぶとのこと。 巻子本や冊子本など完全な形で伝来した古筆 (奈良~室町時代のすぐれた書。特に和様の書や,かな書きのもの) を,掛軸仕立てにしたり,手鑑に張ったりする目的で切断したもの。桃山時代から江戸時代にかけ茶道の流行に伴い古筆が愛好され,需要が多かった。切断された断簡は内容,地名,所蔵者名にちなんで「万葉切」「高野切」「本阿弥切」などと称した。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典) こうした古筆切はやはり能筆家の書の人気が高かったようで、展示されているものでも三蹟の一人である藤原行成や西行といった高名な能筆家の筆とされるものの、研究の結果もっと後の時代のものと判明しているというものも多くみられました。おそらくはこうした高名な能筆家の筆であるということが一種のステータスであったため、それらの筆であるということにされたものも多くあるのでしょう。 とはいえ、そうした高名な能筆家のものではなくても優れた書は多くあるわけで、展示されているものはそれぞれに特徴はありますが、いずれも流れるよ...