京都国立博物館開館120周年記念特別展覧会「海北友松」を訪れて
5月2日に訪れた京都国立博物館の海北友松展は、ここ何年かの間に観た展覧会の中では、もっとも内容が充実し、印象に残った展覧会でした。 海北友松(1533-1615)はもとは近江の武士の出で、父・海北綱親の戦死をきっかけに禅門に入り、その後狩野派の絵を学んだ後に独立し、独自の画風で活躍した絵師です。 このような経歴を見ると、武士の家に生まれたものの絵を描くことが好きで、武士として生きる気持ちはあまり持たなかったような人物を想像してしまいますが、実際にはむしろ逆で、彼は晩年になるまで海北家の再興を志しつづけた「武の人」だったようです。 (浅井家の滅亡の際に友松の兄が討ち死にし、友松は禅門から還俗した) 例えば、親しい友人であった明智光秀の家臣斎藤利三の、山崎の戦ののちに処刑されたあとに晒されていた遺骸を槍をふるって奪い、丁寧に埋葬したといった話も伝えられているとのこと。 そんな友松が海北家の再興よりも自身の画業を優先するようになったのはいつ頃なのか。 展覧会の年表や解説を見てもとくにその点について明確に言及した記述はなかったように思いますが、現在残っている彼の作品がおよそ60歳以降のものがほとんどであるという点から考えれば、50歳代でどこかで心境の変化があったのかもしれません。 (年表によると、先述の斎藤利三の刑死は友松50歳のとき。そして、友松が狩野派を離脱したきっかけと考えられる狩野永徳の死が友松58歳のとき) 友松の作品を見ていて感じるのが、その活躍の前半期(といっても60歳以降ですが)においてはスピード感、躍動感でしょうか。 他の絵師の作品をそれほど多くみているわけではないですが、例えば同展覧会に出ていた狩野永徳の作品と比べて、ひとつの筆づかいの長さが長く、途中の線はかすれが強く感じます。 一方、後半期はどんどん線が簡略化されていき、より少ない線で表現されていく。その様はある種の技芸の円熟の境地に達した達人たちに共通する、無駄を削ぎ落し必要な手数だけが残される事象と共通しているように思います。 さらに、彼の作品の集大成ともいうべき「月下渓流図屏風」をみると、その静謐さ、描かないことによる表現など、友松の「武家」「禅」という出自ならではなのではないかと感じました。 展覧会にいったら図録を買いなさい、とは大学のときあ...